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『肥後の琵琶弾き 山鹿良之の世界〜語りと神事〜』
芸術祭優秀賞受賞によせる、関係者のことば

2008年8月13日

芸術祭優秀賞受賞によせる、関係者のことば

平成19年度(第62回)文化庁芸術祭受賞式
2008年1月24日 ホテルニューオオタニ大阪 於

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「肥後の琵琶弾き 山鹿良之の世界〜語りと神事〜」(VZCG-8377)

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【もくじ】

ヒュー・デフェランティ氏(英文と和訳)
木村理郎氏
木村史彦氏

How the Yamashika Yoshiyuki archive recordings anthology was made

It is probably a decade since I first thought about the need for a CD of performances by Yamashika. I'd researched the music and lives of blind biwa-hiki in and around Kumamoto Prefecture in the early1990s, and it surprised me that although Yamashika had been portrayed by the media and documented by many scholars for 20 years prior to then, only a few fragments of his vast repertory repertory of musical recitation had appeared on commercial discs of CDs. Some time in 2002 I met Kimura Riro in an Ikebukuro Hotel, then went together with him to present our proposal to Fujimoto Soh, the head of Victor's Dento Bunka Shinko Zaidan. Mr.Fujimoto was enthusiastic, but also realistic about the scale of what would be involved in gathering recordings of Yamashika from many people and sources. Simply obtaining the source recordings and permissions took much time and effort during 2003-05. Then began the work of documenting these items, including the huge task -undertaken by Kimura Riro - of transcribing the words of Yamashika's recitations. I had been living in Japan in 2001-02, but began a new job back in Australia in 2003, so the compilation and creation of this CD was a transnational achievement. All this continued to be facilitated by Mr.Fujimoto and Ms. Nakakouji Natsuko, whom he assigned to manage the project.

I think Yamashika-san would be bemused by all this work and running around on his behalf in distant Tokyo and Australia! But I also know (because I asked him about this possibility when I saw him for the last time in 1992) that he would be happy that people all over the world can now hear some of his music.

Hugh de Ferranti

山鹿さんに伝えていた計画《上記英文和訳》

山鹿良之さんの演奏を記録する必要性を痛感したのは、1990年代はじめである。当時私は、熊本県とその近隣を稼ぎ場としていた盲目の琵琶弾きである山鹿さんたちの音楽と生活を記録するためのフィールドワークを行っていた。ことに芸能者である山鹿さんについては、私が調査に入る20年以前から、すでにラジオやテレビなどのメディアで紹介されていたし、研究報告書や論文は多数あった。しかし、山鹿さんの何百時間にも及ぶ語りのレパートリーの音源のほとんどがメディア化されていないことに気づいて、驚くと同時に、いつしか私がその実現に関わるようになっていく。

2002年、私は池袋のホテルで木村理郎氏と落ち合って音源のCD化構想を話し合い、ついで日本伝統文化振興財団理事長である藤本草氏のもとを訪れて、私たちの企画を提出しその内容を披瀝したところ、藤本氏は熱心に耳を傾けていただき、構想実現のための作業に入る機会を与えていただくことができた。

しかし、それは気の遠くなる仕事のはじまりでもあった。膨大な音源記録を集成する道のりは簡単なことではなかった。パートナーの木村氏は多忙な公務を抱えながら、長年かけて山鹿さんから聞き取りした大量の録音テープからの文字起こしの渦中にあった。私自身も調査・研究と併行しながら行う、音源提供を受ける機関や研究者との交渉、その整理と選択作業には、想像以上の時間を奪われることになった。けれども煩雑な課題をひとつクリアーするごとに、CD化の夢はいよいよ大きくなっていく。

その最中の2003年、私はオーストラリアに新しい職場を得たことから、この後の作業は、私の短期日本滞在を除けば国境を越えたものになり、計画は遅延や停滞を繰り返すようになった。この状態のなかでCDが完成したのは、財団理事長藤本さんの理解と制作ディレクター中小路奈都子さんの力強い協力があって成し得たことを改めて感謝している。

このような経緯を山鹿さんが聞いていたならどんなにも困惑したことだろう。残念ながらCDの完成を待たず山鹿さんは亡くなったが、彼の演奏と語りを世界中の人々が聞くことが実現できたのだから必ず喜んでいるに違いない。実は山鹿さんと最後に会った1992年、私はこの計画の実現について、彼に語っていたからである。

因縁か偶然か

木村理郎

山鹿さんとはいろいろなところによく旅行をした。手引きというより、高齢で眼が不自由なための付き添いだが、もっとも大切な仕事は飲食の介護である。ことに山鹿さんは語る前に、燗酒を湯飲み茶碗で一杯ゆっくりと引っかけて声を出すための準備するのが不可欠な習慣になっており、その飲ませ役が僕の担当だった。一般の人からすれば、演奏前に酒を飲むなど理解しがたいことだけに、僕は言い訳をしつつ燗酒を準備した。

山鹿さんは、いかに権威のある研究者であれ有名メディアであっても、調査や取材に簡単に応じることはなかったし、要求されてもただちに琵琶を語ることはしなかった。決して気分屋とか気難しいというだけではない。芸を生活の糧にしている山鹿さんであっても、普段は畑仕事や暮らしの作業をやっており、その日常を犯されことは愉快ではない。しかも誰であろうと見知らぬ訪問者に、タダで演じたり話したりする義理はないという芸人・宗教者としての矜持があることを、皆さん理解していなかった。加えて、同じような質問をされ、同じ外題を語らせられることが多かったから、心底うんざりしていた山鹿さんの気持ちは分からないではない。

そこで、長い付き合いの僕のマネージメントが必要になる。山鹿さん自身には関係ない「時間のない訪問者」のために、もっぱら山鹿さんの気分を和らげて、相手の勝手に合わせる役割を負うことが多かった。いかなる研究・報道といえども、対象者への幾ばくかの心遣いはあって然るべきであろうと、自戒を込めて申し上げたい。

一時期、琵琶と話芸で山鹿さんの公演旅行ができないかと計画したことがある。きっかけは、高橋竹山氏(初代)の演奏会に行って、三味線の演奏ではなくて竹山氏の話に感動したからである。単純な比較は赦されないが、竹山氏の境遇は山鹿さんと似ている。しかも、身びいきになるが山鹿さんのほうが厳しい境涯を過ごしてきたと僕は見ている。話にしても山鹿さんのほうが上手である。様々な不幸をバネに変え、逆手にとって力強く生きてきたなかで構築された人生観、これに伴い培われた話芸は、聞く者の心を強く響かせるものがあった。時事問題もよく聴いていたラジオから幅広い話題を豊富に得ており、山鹿さんならではの独自の見解や解釈は、聞き慣れている僕でさえ、その機知に富んだ話に笑い泣きし、時には身をただすことさえあった。そして、これを多くの人に伝える場や時を設けるべきことを強く感じていた。

残念ながら計画は実現しなかった。その大きな要因は、竹山の津軽弁より山鹿さんの言葉がわかりにくく、通訳が必要だったが、その役を果たす者が余りにも少なかったことにある。さらに竹山氏には多くのメディアが先行しており、豊富な情報となって敷衍していた。そのあれこれが重なって、肥後弁と筑後弁が混じったなまりの強い言葉の通訳業は95歳で山鹿さんが亡くなった今も、僕が聞き取りした録音テープの文字起こしの仕事として残されている。

それにしても、父(木村祐章)が山鹿さんの琵琶の演奏を使った昭和38年のNHKラジオ放送『ぬれわらじ』――天草地方の女性の出稼ぎ「からゆきさん」をテーマにした作品――で芸術祭優秀賞をとっていることと今回のCDの受賞は、45年後の偶然にしても、いかにもできすぎた出来事である。父と山鹿さんの絆に、改めて身震いを覚えている。

山鹿さんの記憶

木村史彦

山鹿さんを鮮明にしたのは、小学校に入学して間もない春のこと。木登りが得意だった私は、山鹿さんの息子と五、六メートルはある孟宗竹の細い部分にしがみついてユラユラしならせることを競っていた。記憶はここで途切れる。落下したのである。気づいたとき、私は生木の煙の臭いが漂う囲炉裏端に寝かされていた。どこが痛いというのではなく、無性に空腹を覚えて泣き出した。「起きたごたるな」という塩辛声が聞こえて、「馬鹿たれが。自分で落ちとって、泣くな!」と叱声する青白い父の顔が私を見下ろしていた。これが琵琶弾きの山鹿さんを想い出す最初である。

以来、父のお伴でいくども山鹿さんに会ったが、子どもだった私には正直、琵琶は煩いだけの耳障りな音階に過ぎなかった。その父は私の二十歳の誕生日に他界した。葬儀のとき山鹿さんは袈裟を掛けて独り葬儀の寺の片隅で太い数珠をまさぐっていた。このときはまともに礼を述べることさえできなかった。私が一人で山鹿さんに会うようになったのは、父の三回忌の法事に同じ姿の山鹿さんを見てからである。

帰省する度に山鹿さんのもとを訪ねるうちに、私は芸能者としての琵琶弾き山鹿良之の生き様に惹かれていった。しかし、その採訪も東京で出版社務めの身ではさしたることもできない。幸い故郷に定住を決めた弟が山鹿さんに興味をもち、以来、親身になって山鹿さんとの交流を続けて膨大な聞き取りを成すとともに、その死をも看取った。山鹿さんと弟の絆は肉親以上の信頼関係で結ばれていた。傍観者となっていた私には最早立ち入る隙間さえなかった。

私の手元にまだ黒髪の残る山鹿さんのモノクロ写真がある。わずかに微笑でいるようなこの写真を見るとき、三百六十五日と十二月の神仏を一気呵成に詠み上げるワタマシの神事の、流れ出る汗と口元に泡立つ唾気にまみれて高揚した赤ら顔、決して幸せでなかった星霜を物語る分厚く逞しい撥をもつ手、その手のひらでしばくように叩く柏手の響きが聞こえてくる。